(その1へ)

「あれ? なんでぼく、ここにいるんだっけ?」

誰もいないのに、
ぼくは思わず、そうつぶやいてしまいました。

このホテルの廊下は、
まっすぐだったはずなんですけど。

でも、
いま廊下はすぐ先で右に曲がっています。
そしてどんつきには、ご丁寧に小さな絵まで飾られている。

おかしい。

ぼくは今日1日の出来事を最初から思い出してみることにしました。

今日は温泉を楽しむためにこの地に来て、
泊まる宿は、何度も使っているこのビジネスホテルを選んだ。

そしてチェックインを済ませて、
いつもの部屋に向かっていただけのはずだった。

非常階段の位置も、
角の曲がり方も、
考えなくても体が覚えている。

――だから、余計におかしい。

一つ角を曲がると、
さっき通ったはずの自販機コーナーが、また現れる。
照明の色も、壁の模様も、同じ。
ぼくは足を止めました。ふう、と大きくため息をつきました。

そうか。
ここには、お化けがいる。

いる、はずなのに。
距離が分からない。方向も定まらない。

近くにいる感触だけがあって、
位置が、ない。

ぼくは、急いで拠点を定めようとしました。

――いつもなら、それで足りる。

けれど、うまく働かない。
守ったはずの場所が、次の瞬間には、別の廊下になっている。
境界線が定まらない。迷路そのものが動いていました。

ぼくは、すべての動作をやめました。
急に嫌気がさしたのです。

勝つ方法を探そうとしている自分に。

「勝てない」

それはそう。
それは、前からよく分かっている。

「でも負けない」

それも、いまのところ出来ている。

なぜならば、ぼくは痛みや苦しみに慣れているから。
平気というか、なんとか持ちこたえる。
相手がぼくの拠点を攻めてくれば、それは消耗戦となり、
最後にはぼくが立っている。

負けたことなんかなかった。

でも、それだけでは足りない気がしました。
こいつは、ぼくを追い詰めようとしているわけではない。
ただ、消耗させ、方向を失わせ、

「終わらせる」ことを求めている。

ぼくは、壁に手をつきました。

冷たい感触。

そうか。ここにいる。
それでいいんだ。

「勝つ必要」も、「負ける必要」もないんだ。

そう思った瞬間、迷路の生成が、ほんのわずかに遅れました。
完全には止まらない。でも、急がなくなった。

ぼくは、その場に立ったまま、
一歩も進まない。
廊下が伸びても、折り返しても、
ぼくは、同じ場所にいる。

どこかで、低い音が鳴りました。

規則的で、感情のない音。

掃除機の音でした。

蛍光灯の白い光が、廊下に満ちていて、
まっすぐ伸びる廊下の先の非常口の緑色のランプは、もう消えています。

いつのまにか、朝でした。

ぼくは、チェックアウトで慌ただしくなっている廊下を通り抜け、
一階のエントランスへと向かいました。

振り返らない。

勝った、とは言えない。
でも、負けてもいない。

それ以上のことを、確かめる必要はないんだ、とぼくは思いました。