占い師リノルナの事件簿⑤「居心地のいい場所」

占いが終わり、若い女性客は帰り際に、ふと思い出したように話し始めました。

友だちと一緒に、心霊スポット巡りをしたのだそうです。
京都の北のほうにある、もう何年も使われていない廃ホテル。

「もしかしたら、そこで指輪を落としたかもしれなくて」

そう言って、彼女は笑いました。

「私、呪われています?」

冗談半分の調子で。

「大丈夫です。そんなことで呪われたりなんかしません」

ぼくは、そう答えました。
占い師としても、それ以上の言葉は必要ありませんでした。

彼女は軽く会釈をして、店を出ていきました。

閉店後、いつもの手順で店を片づけながら、ぼくは、なぜかその話を思い返していました。

心霊スポット。
廃ホテル。
落としたかもしれない指輪。

どれも、取り立てて気にするほどの話ではありません。

(……気にする必要はない)

そう思いながらも、頭の片隅に、かすかに引っかかっていました。

強いて言えば、個人的な興味です。

数日後、用事で京都の北のほうを通ることがありました。

山あいの道を走りながら、ふと、例の廃ホテルのことを思い出します。

地図を確認すると、ちょうど近くにあるようでした。

「ここだ」

道沿いに、雑草に囲まれた駐車スペースが見えます。

その奥には、平屋のコンクリート造りの建物がありました。
昔のモーテルのような造りで、客室ごとに、同じ形の扉が並んでいます。


その中の一つだけ、鍵が壊れているのか、わずかに隙間がありました。

誰かが入った形跡、というほどのものではありません。
ただ、閉まりきっていないだけです。

「ここかな」

独り言のようにつぶやきながら、ぼくは扉に手をかけました。

抵抗はなく、扉はすんなりと開きました。

中に入ります。

かび臭い空気。
薄暗い室内。

床の隅には、真新しいお菓子の袋や、空になったジュースのペットボトルがいくつか置かれていました。

そのまま、片づけられずに残っています。

「子どもたちにとっては、最高の秘密基地だな」

そんなことを考えながら、ぼくは、部屋の奥に置かれた布地の破けたソファーに腰を下ろしました。

ソファーの上に置いてあった少年漫画雑誌を開きます。
なんとなく、ページをめくって眺めていました。

誰かの家に遊びに来たときの、あの感じによく似ています。

ああ、もうすぐ夕暮れだ。

そのうち、お友達のお母さんが、
「リノルナちゃん、お夕食、食べていったら?」
そんなふうに声をかけてくれたりして。

その考えが浮かんだ瞬間、体が固まりました。

慌てて腕時計を確認します。

午後二時を、少し過ぎたところでした。

この部屋に入ってから、まだ五分も経っていません。

ぼくは、腕時計から目を離さないまま、しばらく呼吸を整えていました。

秒針は、きちんと進んでいます。

遅くもなく、早くもない。

この部屋の外では、時間は普通に流れているようです。

……それが、少しだけ腹立たしく感じられました。

ソファーに沈んだ体を、すぐには起こしませんでした。

立ち上がれば、この感覚は消えるでしょう。
そう思えました。

でも同時に、消えてしまうのが惜しい、という気持ちが、確かにありました。

ここは、何かを要求してこない。

怖がらせることもない。
脅すこともない。
答えを迫ることもない。

ただ、「ここにいていい」と言っているだけでした。

それが、いちばん厄介なこと。

ぼくは、少年漫画雑誌を閉じ、元あった場所に戻しました。

ゴミも、まとめませんでした。

余計なことをすると、「ここに住む準備」を始めてしまいそうな気がしたからです。

ぼくは、言葉にしておかないといけない気がしました。

今日は、どうこうするために来たわけではない。
指輪を探しに来ただけ。

よし、ここを出よう。

ポシェットの中の車のキーに、無意識に指先が触れました。

そのとき、別のものにも触れました。

取り出してみると、クシャクシャになった、キャンディーの包み紙でした。
イチゴ柄の模様の。

ぼくは、その包み紙をソファーの上にポンと置きました。

それから、扉を開けて外に出ました。

眩しい日差しが、目に飛び込んできます。

車に戻り、エンジンをかけました。

「指輪は見つからなかったな」

出来事の印象が、急速に薄れていきます。

しばらく、頭の中は完全に凪の状態でした。

何のとっかかりもなく、次にやるべきことも思いつきません。

心地良いと言えば、そうなんだけど。

それが、すこし気になる。