
占い師リノルナの事件簿@京都ほしよみ堂⑬「神域の境界」
見えているからといって
行かなければならないわけじゃない
山へ行くことだけは、決まっていた。
ぼくは車を走らせて、指定された場所で止めた。
先に、一台停まっている。
高級外車だった。
かたわらにあいつが立っている。
「来たか」
「ええ。あなたは平気そうですね」
「何が?」
本気で聞き返してくる。
「……いえ」
あいつは、それ以上、気にしなかった。
山を見る。
「いい場所だ」
「そうですか」
「線がきれいだ」
その言い方に、少しだけ引っかかる。
「今日は、やるんですか」
「やる」
迷いがない。
「準備は」
「全部ある」
あいつはリュックを背負い直す。
重さはあるはずなのに、重そうには見えない。
「行くぞ」
あいつは先に歩き出した。
ぼくは、少し遅れてついていく。
ここはホンモノだ。
遊びで来るような場所ではない。
あいつは、
それを感じていないわけじゃない。
「慣れてますね」
「似たような場所は、いくつもある」
それだけだった。
その言葉で、分かってしまった。
(こんな場所は、めったにあるものじゃないよ)
「おい、どうした。来ないのかね」
あいつの声がやけに遠く感じた。
その場所へ向かう道は、地図に載っていなかった。
正確に言えば。
載せようと思えば載せられるのだけれど、
載せる意味がない。
そういう場所だった。
人が入っていい場所かどうかは、
ぼくには、身体の感覚で分かる。
一歩ごとに、身体に流れ込む電圧が、
微妙に変わっている。
ぼくは、この感じを知っている。
ここから先は――
「慣れている人間」だけが進める。
ぼくは、痺れる身体を引きずりながら、
歩を進めていく。
「君は意外に体力がないんだね」
あいつは、最初から迷っていなかった。
この原生林に入ってからも、
足取りは一定で、
呼吸のリズムも崩れない。
あいつは、
何度もこういう場所を歩いてきたのだろう。
儀式に必要なものを、
あいつはすでにすべて把握していた。
供物の量。
言葉の順番。
立つ位置。
「準備は万端だよ」
そう言って、あいつは笑った。
ぼくは、その笑顔を見て、少しだけ違和感を覚えた。
準備が整っているのに、
周囲と噛み合っていない。
でも、もうひとつあるのに。
位相。
あいつは境界を扱うときの位相を、
わざと無視しているのかな。
進むにつれて、森の音が減っていった。
虫の羽音も、
遠くの鳥の声も、
どこかで吸い込まれていく。
代わりに、
空気そのものが、重くなる。
圧力、というより、
選別に近い感覚。
ここは、「来た理由」を問われる場所だ。
あいつは、それに気づいていないわけではない。
むしろ、
気づいたうえで進んでいる。
ぼくの中で、
〈境界〉が立ち上がった。
ここから先は、ぼくが介入すると、
役割がずれる。
その判断が、静かに、
確定した。
ここは、神域の境界。
「ぼくは、ここまでです」
と、ぼくは足を止めた。
「そうなのかね。わたしはもう少し先まで進もう。用事があるんでね。位置が大事なのだよ」
あいつは重そうなリュックを背負い直し、鬱蒼とした原生林の奥へ踏み込んでいく。
たしかに、ぼくにも感知できた。
少し先に、最良のポイントがある。
あるいは、最悪のポイントが。
あいつが正しい位置に身を置いているのが分かった。
そして儀式の様式を完成させようとしている。
ぼくは、その所作を見ていた。
供物と、呪言と、
順序だけは正しい動作を。
そのとき、ふわっと、風のような気配が、ぼくの傍らを通り過ぎた。
ぼくは、つぶやく。
「……たしかに。
そうだね。
これは、たしかにぼくの仕事じゃないよ」
気配は。
あの子は、あいつの目の前に立っていた。
儀式のために跪(ひざまづ)くあいつを、見下ろすように。
手に持った刃物が、静かに、そこに在るように感じた。
刃物の先がどこを向いているのかは、分からない。
でも。
あいつの言葉は、意味をとることを許されなかった。
どこにも、届かなかった。





